【体験者のプロフィール】
- 性別:女性
- 職業:元看護師 現在アルバイト
- 年齢:30 代
- 借金:350万円
- 対応方法:任意整理
お金にだらしない母との母子家庭生活
「人様に迷惑をかけるな! 自分の事は自分で責任を持ってやりなさい!」これは母の言葉です。
私は母子家庭で育ちました。母子家庭で恥ずかしくない様にと、幼少期から厳しく育てられました。
母を反面教師に育った
そんな母も、借金はなかったもののお金にはだらしないところがありました。仕事も長続きせず、色々な職種の仕事を転々としていました。
それでも母がどのように工面していたかはわかりませんが、幼少期から私はお金に不自由することなく育ちました。
しかしお金にだらしない母のために、たびたびお金に困る子供時代を送った私は「母みたいにはなりたくない!私はお金に困らない人生を歩む!」と思いながら高校を卒業しました。
そんな思いを胸に過ごしたにもかかわらず、それから15年ほどして、私自身が最大350万円の借金を背負うことに…。
最初の借金をした時から返済の目処がたつまでの経過を、これまでの人生振り返りながら順を追ってお話ししていきたいと思います。
看護師としての順風満帆な日々
高校卒業後は、田舎でも給料の高い「看護師」になるべく看護学校を卒業し、地域でも一番大きい病院へ就職しました。ちなみに看護学校の授業料はアルバイトをし、自分で工面していました。
看護師としての生活は順風満帆でした。
正直、給料は同い年の中では高い方だったと思います。そこに甘んじることなく、私は真面目に働きながら無駄遣いすることなく質素な生活を送っていました。
買い物は全て現金で。分割払いも使用したことなく全部一括払いでした。
そのため、200万円を越す新車も現金一括払いで購入したりとお金に関して悩んだり、困ったことなどはありませんでした。
現金主義でクレジットカードとは無縁の日々
私は犯罪の面なども考えクレジットカードを持つことはありませんでした。現金主義の私はクレジットカードとは無縁の日々を送っていたのです。
クレジットカードを持っていない私は、ネット通販での買い物もせず、欲しい商品があれば店舗へ出向き購入したり、友人に現金を渡してネット通販で購入してもらっていました。
ETCカードも持っていませんでした。
これに関しては友人に苦言を呈されることもありましたが。私は学生の頃から一人暮らしをしており、家賃や生活費も自分で支払っていました。
母親にもいくらかの仕送りをし、母親に負担をかけることもなく過ごしていました。母親も相変わらず職場を転々としていましたが、元気に一人暮らしを続けていました。
母親が倒れて一人で介護することに
彼氏もできて幸せに順風満帆な生活を送っている28歳の私に一本の電話が。
それは母親が勤める会社の社長からで、母が職場で倒れたという知らせでした。切羽詰まった声で話している社長さんの電話を切り、すぐに母が運ばれたという総合病院へ向かいました。
そこには意識がない状態の母親が…
医師の説明によると、「糖尿病を患っていたが、本人に自覚がなく高血糖で瀕死の状態だった。これからどれくらい回復するかわからない。回復しても介護が必要になると思う。今後のことはこれから家族の人と話し合って決めて欲しい。」とのことでした。
私は呆然としました。
「家族と言っても、母子家庭で一人っ子の私がこれから面倒をみていくしかないじゃない…」
その瞬間から、私は数年に及ぶ母の介護生活を送ることとなるのです。
この時は、母が倒れた悲しみよりも「誰にも迷惑をかけられない。私一人で乗り越えるんだ!」という思いが強く、仕事と介護の両立の両立を完璧にこなすことを目標としました。「自分のことは自分でしなさい」という母親の言葉を思い出し、辛いことがあっても介護のことは誰にも相談しない、弱音を吐いたりしないと強く心に決めたのです。
しかし、この決断が後々、私の心を蝕んでいくこととなってしまうとはその頃の私は夢にも思っていませんでした…
母の余命宣告と、仕事と介護の両立
数日後、母親は意識を取り戻しました。
しかし、血糖コントロールが不良のため、腎臓も悪く透析が始まりました。かろうじて杖をついて歩けるようになった母が自宅療養を希望したため、退院しました。その時、私にだけ主治医から「お母さんの命は長く4年ぐらいでしょう」と余命宣告されました。
責任感から仕事はそのまま続けることに
私は、自分の職場の上司にその旨を伝えました。
上司から介護休暇や就業時間の短縮などを提案されましたが、今で言うのは恥ずかしいですが、責任感からその提案を全て断り今まで就業形態のまま仕事を続けました。もちろん夜勤も続けていました。
認知症発症。個人病院への転院
仕事の時間以外は母親のそばについて食事やお風呂などの介助をしました。しかし、母親の状態は徐々に悪くなり、寝たきりになり認知症の症状もでてきました。母は私のことがわからず、私を探す日々でした。
そのようなある日、今度は低血糖になり再び意識がなくなりました。総合病院の主治医と相談し、それから母は個人病院へ転院することになりました。
正直、仕事と介護の両立に疲れてきていた私は、「これで少しは楽になれる」と思ったのです。
病院でも家族が世話をしなければならなかった
個人病院へ転院し、安心したのも束の間、そこで看護師さんに言われました。
「母親には今まで面倒みてもらったんでしょ?これからはあなたがお母さんのお世話をするの。当たり前でしょ。」
その個人病院は、入浴以外は家族が世話をするという暗黙の了解みたいなのがありました。そのため、私は仕事以外の時間は消灯の22時までは母親の介護をすることに。入浴は病院側でやってくれるものの、今までと何も変わらないどころか、病院に通う分負担は増えたように感じました。
誰にも頼らず一人で介護する日々
その頃の私は、メイクをすることもなくなり、買い物も必要最低限のものしか購入しなくなっていました。
私の心の中は「人に迷惑をかけてはいけない。今まで育ててきてもらったのだから、しっかり母親に恩返ししないと。大好きな母が1日でも楽しく長生きできるならなんでもしよう!」という思いでいっぱいでした。
今考えると、介護生活について誰かに相談したらよかったのかもしれません。しかし私はそれができなかったのです。親戚や彼氏、友人等から「本当に大丈夫?」と心配されることもありましたが、その頃の私の口癖は「大丈夫!」でした。
もしかしたら自分自身のプライドが高く、世間体も気にしていたのかもしれません。
仕事をやめて介護に専念することに
母親の介護を始めて3年、とうとう精神的にも体力的にも限界にきていた私は、夜勤中に仲のいい先輩看護師に「もう、限界です」とつぶやいていたのです。
そこからあれよあれよと退職の流れになりました。ここで、介護休暇など利用したいと言えたらよかったのかもしれませんが、私の心は限界でした。
無職の介護生活
それから私は無職になり、母親の介護だけが生きがいとなりました。
認知症のため私のことがわからない母親は、私をお手伝いさんと思い込んでいました。私が自分の娘とわからない母が、娘が小さかった頃の話や、頑張って看護師になったという自慢などを私に楽しそうにしたりしていました。
徐々に母親の体調は目に見えるぐらい悪くなってきました。総合病院の主治医の余命宣告から考えたら、母親の命は後1年ほどです。
私は毎日母の元へ行き、母が食べたいものや欲しいものを買って行き、母親の笑顔を支えに生活していました。
「お金は無限にある」この思い込みが地獄への入り口
無職になった私は貯金を切り崩して生活していました。その頃は私は250万円ほどの貯金があり、無職になっても看護師をしていた頃の生活水準をそのまま保っていました。
大きな買い物はしないため、貯金が大幅に減ることはなかったのです。私は「お金がなくなることはない」となんとなく考えていました。
しかし、この「なんとなくの考え」が後の借金地獄への入り口となってしまうのです。
母親の死と葬儀
母の介護を始めてから5年が過ぎようとしていました。介護生活にも慣れてきた頃、急に息を引き取りました。
母子家庭で一人っ子の私は、一人で親戚や母の知人、自分の友人などに連絡したり式場を決めて喪主をつとめ、納棺、出棺、火葬・納骨などをバタバタとこなしていきました。本当に大変で、友人や親戚などに手伝ってはもらいましたが、全てが初めてのことでどうしたら良いのやらと母の死を悲しむ暇もありません。涙も出ません。
貯金もだいぶ減っていたため質素なお葬式とはなりますが、心を込めた葬儀にしましょうとスタッフの方と相談したりしていました。「この金額なら、少し経ってからまた仕事に復帰すれば大丈夫!!」私はそう思っていました。
…しかし、このお葬式から「借金」の2文字はすでにこちらに歩み寄ってきていたのです。
「私は知らないよ」
母の葬儀が始まる直前でした。
母の祭壇に予定外の献花がたくさん飾られたのです。
スタッフの方に話を聞くと、「あちらの親戚の方がどうしても追加でとのことでして」と、親戚の中のZさんの方を見ながら説明されました。
すぐにZさんの元に行き、話を聞くと「私が代金は払うから、お母さんのためにお花を増やしてもらったのよ」と笑顔で話していました。
Zさんは70代の女性で、母の生前には良くお世話になった方でした。
式を終わらせ、火葬場に行く際にスタッフの方から請求書を手渡されました。金額は私が一番良く知っているので確認のために内容を見ると…
請求金額は私が交わした契約より30万円高くなっていました。
「え?」と頭の中は混乱しましたが、明細をよく見ると『献花30万円』となっていました。
まだ式場の駐車場にいたZさんのところへ行き、「すいませんが…」と献花代金について恐る恐る聞いてみると、
「は?私はそんなの知らないよ!」と強めに言い放たれました。
Zさんは認知症だった
結構な時間親戚一同で話し合った結果、Zさんは近頃認知症だということがわかりました。葬儀で他の人の手前、ここは喪主である私が支払って事を収めるのが良いということになりました。
私は何も言い返せませんでした。
葬儀場の代金が後日支払うことにし、それから皆で火葬場へ向かいました。
火葬や納骨などを淡々とこなしていた私ですが頭の片隅から「30万円もどうしよう…」と言う思いがずっと離れませんでした。
献花代30万円をどうするか
葬儀や役所の手続きなどを済ませた私は、献花代の30万円をどう工面するかという現実が支払期日とともに迫りつつありました。
母には貯金は一切なく、入院費の支払いなどで残金は数万円でした。私の残りの貯金額と合わせても30万円はありません。
ここで初めて「お金がない…」という気持ちが湧き出てきました。しかし、どうして良いかわからず、誰に相談して良いかもわかりません。
しかし、期日内にきちんと支払わないと「人様に迷惑をかけてしまう」という私の中で最悪の事態に陥ってしまいます。
毎日毎日悩む日々です。その時も母の死に悲しみはありませんでした。
頭の中では「お金はどうしたら良いの?」「誰に相談したら良いの?」「誰か助けてくれるの?」吐きそうなぐらい悩みました。
夜も眠れず、時にはうっすら涙が溢れることもありました。
そんな私の様子を見かねて、交際が続いていた彼氏の母親が私に声をかけてくれました。
お金を借りた瞬間緊張の糸が切れた
彼氏の母親は「家族も同然なんだから、なんでも相談して。最近なんかおかしいよ。」と優しく言ってくれました。
最初は「大丈夫です」しか言えなかった私ですが、徐々に緊張の糸解けていき、彼氏の母親にお金のことを相談してしまいました。
正直何をどう話したのか覚えていません。
私の話を一通り聞いた彼氏の母親は「わかった」とすぐに30万円を現金で封筒に入れ、私に差し出してきました。差し出された封筒を受け取る私は恥ずかしいのと罪悪感とあったのですが、一番は安堵感でした。
そこで私は何か緊張の糸が「ぷつん」と切れていたのです。