私は現在35歳で4人の子の親ですが、14年前の21歳当時に連帯保証人と自己破産を経験しました。
自己破産当時の負債は500万円。
借金を出来るようになるのが20歳以上である日本において、信じられないほどの若さでの自己破産でした。
また、自己破産することになった原因は母親とその再婚相手の連帯保証人になったことでした。
今考えてもぞっとするようなお話です。
なぜ21歳という若さで自己破産するに至ったのか、自己破産とはどういう物なのか、メリットやデメリット、何年で元の生活に戻ることが出来るのかなど、実際の体験を元に順番にお話ししていきます。
【体験者のプロフィール】
- 性別:男性
- 職業:会社員
- 年齢:30代
- 借金:500万
- 対応方法:自己破産
11歳の時に両親が離婚
私が11歳の時、両親は離婚をしました。父は経営者で、建築関係の仕事としていました。
私が幼いころから家に寄り付かず、1か月か2か月に1度しか帰ってこず、普段は事務所で寝泊まりをしていました。
さらに父は、人並み以上の収入がありながら、家には15万円程度しか入れていなかったため、母は朝から晩まで働き詰めという生活を強いられていました。
そのため、「離婚する」と聞かされた際も特に驚きはなく、生活の変化も特になかったものの、母の忙しさはさらに酷いものになり、子供ながら母を心配する日々でした。
子育てと仕事に励む母
母は離婚前保険会社で働いており、夜間に母がいないのが心細いため、私と妹と弟の3人を車に乗せて、夜遅くまで外回りをしていました。
弟はだいたい眠ってしまい、妹は「早く帰ろう」を連呼。
母は来る日も来る日も夜遅くまで働いては、私たちに「ごめんね。」と繰り返していました。
そのようにして必死に保険会社で働いていた母ですが、離婚後、保険会社では3人を育て上げるだけの収入は得られないと判断。
ネットワークビジネスに参入することになりました。
参入した会社は日本でもトップクラスの売り上げを誇る会社で、「ねずみ講」の類のものではありません。
保険会社時代のコネで話を聞く機会があり、熟考した結果母は一大決心し、保険会社を辞め、心機一転新しい土俵で頑張る姿を、長男である私は心から応援していました。
完全歩合制で変化する生活
保険会社時代は契約が取れなくとも基本給があり、父からの15万円があったために生活は厳しいものの「貧乏」というわけでもありませんでした。
しかし母の転職を期に、明らかに生活が揺らぎ始めました。
父からの養育費は毎月13万円だった住宅ローンの半分を支払うのみ。
実質ゼロ円です。6万5千円の家賃のアパートで3人の子供を女手一つで育てているようなもの。
保険会社とは違い、ネットワークビジネスは「完全歩合制」。
「権利収入」というものが発生しますが、自分のネットワークで売り上げがゼロなら、どれだけ大きなネットワークを構えても収入はゼロ。
転職したばかりの頃は、なかなか結果がでず、電気やガス、水道が頻繁に止まるような生活でした。
仕事が軌道に乗ったと思ったが…
35歳の今になって考えても、母の努力には頭が下がります。
朝の6時台から仕事に行き、21:00以降に帰ってくる生活。
家での晩御飯の支度などは徐々に私がするようになり、不満もありましたが母の頑張る姿を見ると何も言えず、生活が良くなるのならと母を信じるしかない日々でした。
母がなぜそんなにも努力をするのか。
ネットワークビジネスは、「自分のネットワーク全体の売り上げから、その内の数%が入る」と言う仕組みですが、そのパーセンテージを上げる方法がありました。
それは役職です。
サロン長⇛支店長⇛地区長と、上がれば上がるほどパーセンテージも上がります。
母は日々の努力の甲斐あって、サロン長、支店長へと階段を上がることに成功。
支店長は全国でも人数が少なく、平均して月収数百万円の収入を得ている方ばかりの役職です。
自分のネットワークで、3か月で6千万円という売り上げを達成し、見事支店長になった日の夜は、一緒に泣いたのをよく覚えています。
「これで貧乏生活ともさよならできる」当時中学生だった私は、心からそう思いました。
しかし、現実は思うようにいかなかったのです。
私は18歳から運送会社の社員として勤務し、自己破産当時も変わらず元気にトラック運転手として日々勤務していました。
自宅が競売に
やっとの思いでたどり着いた「支店長」の座でした。これまでの努力が報われたかに思えました。
母が喜び泣く姿は、今思い出しても何とも言えない感情が沸き起こります。
驚くほどの売り上げを上げ、新しい支店長として、変わらず頑張る母でしたが、ある大きなミスをしていたのでした。
自分の作り出した組織に「仕事」として取り組む人材があまりにも少なかったのです。
ネットワーク上での売り上げが全ての「ネットワークビジネス」において、まさにそれは致命的でした。
簡単に行ってしまえば「一時的な売り上げ増加」に過ぎなかったのです。
もともと仕事として取り組んでいたメンバーもその状態に嫌気がさし、徐々に撤退していき、いよいよ窮地に立たされる結果になってしまいました。
それからほどなくして、住宅ローンの滞納が影響し、自宅が競売にかかることになってしまいました。
母の再婚と更なる悪夢
それでも母には、全国区の大きな会社の「支店長」という肩書きだけは残りました。
そのおかげで顔は広くなり、立派な企業の男性とも交流があったようである日母再婚することを伝えられました。
経済的な厳しさは続いていたし、母が少しでも楽になれるならとこの時も純粋に喜びを覚えました。
相手は大田区の高級住宅街に住む経営者で、明るく紳士的で母校である大学の後援会会長を任せられるような人望の持ち主。
これ以上ないと言うほど尊敬できる人柄で、私は一気に好きになりました。
自宅が競売にかかり、賃貸の一軒家に引っ越した矢先の出来事でしたが、すぐにその家を引き払って大田区へと引っ越しました。