私の父の想い出は、いつもお酒に酔っぱらっている姿しかありません。
私は父方の祖父と父、母の4人暮らしでしたが、父がアルコール依存症、所謂「アル中」でした。
アル中の父は借金をし、私たちに対して家庭内暴力(DV)をするようになりました。
結果的に私と母は父を見捨てる決断をしました。
そのいきさつについて、書いてみたいと思います。
物心ついたときからアル中だった父
私たちは祖父の家で同居しながら生活をしていました。(祖母は既に他界しています)
仕事は自営業で、祖父が切り盛りをする仕事を父が手伝っていました。
そのため、私が学校から帰るといつも茶の間には父がいました。
父がどのように仕事をしていたのかは覚えていません。
私が覚えているのは、茶の間でお酒を飲んで、テレビに向かって大声を出しているか、ゴロゴロしている父の姿でした。
父はよく友人や知人と外で飲みに行っていました。
そんな時は遅くなっても帰宅せず、夜中に私が寝てる間に帰宅して、玄関で母に大声を出していたり、近所のどこかその辺で眠り込んで朝に帰宅していたようです。
祖父が叱っても聞く耳を持たず、祖父も寡黙な人だったため、半ば不出来な息子から逃げるように仕事に没頭していました。
うちのお父さんは他とは違う?
小さなころは、父の酔っぱらった姿は普通のことで、特段変わったことだとは思っていませんでした。しかし、友達の家に遊びに行ったときに、友達のお酒に酔っぱらっていないお父さんをみて、ひどく驚いたのを覚えています。
もしかしたらこういう‟酔っぱらっていない”お父さんが普通で、自分のお父さんは何か違うのではないか…と気づき始めたのです。
シラフだったのは年数回
私の父も、年に数回シラフな時がありました。
そんなシラフな父は、いつもみたいに大声をだしたり体を揺らしたり、大きく手を振り回したりすることもなく、存在感がないようにただそこに座っているだけでした。
実際その時の父がシラフだったのか、私にはわかりません。子供のころは、アルコール依存症やシラフなどといった言葉は知らなかったですし、理解もできませんでした。
祖父の死と両親の喧嘩
私が中学に上がったころ、仕事を切り盛りしていた祖父が亡くなりました。
仕事はほぼ祖父が切り盛りしており、父はその手伝い程度しかしておらず、その頃はほぼ仕事もせず家でお酒を飲むかブラブラしている印象しかありませんでした。当然収入といえるものは途切れたか、僅かなものだったでしょう。
今となって思えば家計はそうとう苦しかったのではないかと思います。
パートに出る母
母はパートに出るようになり、私は母の帰宅が遅い日は、学校から帰ってから洗濯したり、簡単なおかずを作るなどして母の手伝いをしました。
この頃から父と母はよく喧嘩をしていました。
父のお酒の量のことと、お金の事、ゴロゴロしないで仕事をちゃんとしてほしいなどと母が言い、それに対して父が逆上するというのが喧嘩の常でした。
母が口を酸っぱくして言ったところで何も変わらず、父は相変わらず家でお酒を飲み、知人たちと夜のお店に出ていくのでした。
発覚した父の借金
ある日家に電話がかかってきました。
母が出たのですが、父の借金返済の催促の電話でした。
私は自分の部屋からこっそり階段まで下り、その電話を盗み聞きしていました。
それまで私は知らなかったのですが、父は結構な額の借金をしていたようでした。
父はもう仕事はしていないようなもので、母のパート代と貯金でなんとか生活しているような状態でした。
当然生活は苦しく、無駄に使えるお金などは1円たりともない状態なのに、多額の借金。借金の事実を知った私は愕然として階段に座り込んでしまいました。
10代の私にでも、借金を返せるほどのお金が家にない事くらいわかっていました。
今まで貧しく慎ましくなんとか生きてきたのに、アルコール依存症の父の、何に使ったかもわからない借金のせいで、これ以上に貧しくなるのかと思うと、怒りがこみ上げるとともに、これからどうなってしまうのだろうと手が震えたのでした。
暴れる父。激しくなる暴力
母は父に借金をどうするのかと詰め寄りました。
その頃の父は借金の事などもあってか、お酒を浴びるように飲むようになっていました。それまでも多かったお酒の量が更に増え、言動は荒く、暴れるようになりました。
母が詰め寄ると暴れだし、暴力をふるうようになりました。
テーブルやイスを投げ飛ばしたり、母を殴ったり髪の毛をつかんで壁に頭を打ち付けたりもするようになりました。
私はその都度父を止めに入るのですが、しょせん未成年の女の力ではどうにもならず、母と一緒に殴られたり蹴られたりするようになりました。
アルコール依存症を相談しても解決しなかった
母は暴力を振るわれながらも、なんとかできないものかと奔走していました。
保健所に行って、アルコール依存症の相談をしたりしていました。ただ、父本人にアル中である自覚が全くなく、相談も常に母のみだったため、正直改善への道は全く開ける気配がありませんでした。
督促の電話に怯え、やまない暴力に震えた
その間も借金の督促の電話や訪問があり、父の暴力相変わらずでした。
督促の電話に父が出ることは一切なく、母が出て対応したり、電話線を抜くなどしていました。
私は電話の音に怯えるようになり、電話がなると布団にもぐって耳を抑えました。電話線を抜くようになってからは少しホッとしましたが、催促の人が家にくるようになり、家にいても落ち着く事がありませんでした。
催促の人に対して父はヘコヘコしていたようでした。やり取りはわかりませんが、すぐ返すとかなんとか言ってたと思います。
催促の人が帰ったあとは、決まって父の機嫌は悪くなっていて、暴れたり母や私に暴力を振るいました。
親戚のお金で借金返済?
このへんのいきさつについて私はよく分からないのですが、それまで来ていた督促の電話や催促の人は、ある時から来なくなりました。
後になって母に聞いたところ、父が知人や親戚から借りたお金で完済したのか一部を返済したようでした。
催促の人がこなくなって、気持ちは幾分か楽になりましたが、またいつか来るのではないかと怯え、父に対しては不信感と憎しみしかありませんでした。母に対しても、こんな父親とさっさと離婚して欲しいというイライラした気持ちが心の奥に常にあり、母の事が好きだという気持ちとせめぎ合っているような状態でした。
病院へ入院を勧めたら親戚がやってきた
ある日母が相談先でアドバイスのあった、アルコール依存症のための入院を父に勧めたことがありました。
するとまた父が暴れだし、後日家に父方の親戚がやってきました。
その人は祖父の兄であり、私からは伯祖父にあたる人でした。伯祖父は父の借金の返済を手伝った人でもあったようです。全額なのか、一部なのかはわかりません。
その伯祖父が言うには、妻として夫を支えることもせず、無理矢理病院に入院させようとするのはどういうことか、という事でした。
母がいくらアルコール依存症を治療する為に言ったことだと説明しても、古い世代の伯祖父には全く理解してもらえませんでした。
その間父は伯祖父の横でニヤニヤしているばかりでした。
結局父を入院させてアルコール依存症から立ち直らせるということは、失敗に終わったわけです。
離婚に煮え切らない母
私は母に早く離婚してくれと説得するようになっていました。
ところが母は、離婚には二の足を踏むのでした。当時は理解できませんでしたが、今は少しだけ気持ちはわかる気がします。
離婚後の生活不安もあっただろうし、もしかしたらまだ少し父に対して愛情のようなものがあったのかもしれません。
父の暴力で骨折
しかしある日、私は骨折をしました。
母がパートで帰宅が遅い日に、いつものように夕食の準備をしていたところ、父が私に「酒を買ってこい」と言いました。
私がそれを断ったところ、父は逆上して私を殴り、私がとっさに顔をかばうために突き出した腕をひねり上げました。
その際に枯れ木が折れるような「パキ」というような音がして、簡単に私の腕は折れてしまいました。
あまりの傷みに悲鳴をあげて泣く私を見て、さすがに父も後ろめたくなったのかどこかに出かけてしまい、その後入れ替わるように母が帰宅。泣く私をみて慌てて病院に連れて行ってくれました。
私はそのまま入院することになりました。
目が覚めた母
退院の日、私は母に連れられて、病院の近くのファミレスに行きました。
私は退院してからまた家に帰らなければいけないことをとても恐れていました。
折れた腕は痛かったですが、入院中はご飯が食べれて静かに寝れて、看護師さんが優しい病院を素晴らしく思えました。なによりDVを恐れることなくゆっくりできることが贅沢に思えました。
母の前で不安でうつむく私に、母は涙をためて謝ってきました。
母は私が腕を折られたことで、曇り切った目が覚めたとのことでした。私もそんな母を見て、堪えてきたものがあふれ出すようにして泣きました。母は〇〇子(私の名前)がこんな事になる前に家を出るべきだったと言って泣いていました。
母はパートの給料が振り込まれる銀行の通帳や、その他大切なものを鞄に詰めて出てきたとのことでした。
別居と離婚
母は目が覚めた後の行動は早く、別居を決意。
実は私が入院中、母は父が外出している間に、大切なものを母方の親戚の家に運び出していました。
私の学校の制服や、教科書なども移動されていました。
一旦その親戚の家に身を寄せて、新居が決まり次第そちらに移動しました。
その後、親戚が探してくれた弁護士に依頼して、時間はかかったもののようやく両親は離婚しました。
まとめ
結果的に母と私はアルコール依存症の父を捨てる決断に至りました。
両親の離婚後、父からまた借金をして助けてほしいとの連絡がありました。しかし私たちはそれに応えることはせず、連絡を絶ちました。
アルコール依存症は、本人に治そうという気持ちが無い限りは治らない病気だと思います。
「家族だから支えなければいけない」といった声もあるかもしれませんが、支えきれないこともあると思います。
私の家のように、アルコール依存症の父が借金をしたり、DVをしたりすると、もう通常の生活はできません。
母はそれでもなんとか父を治せないかと方々相談しましたが、やはりアル中である本人自身にその気がなければ何も解決しませんでした。
父自身が改める気持ちがあれば、何か変わったのかもしれません。
しかし結果として私と母は、何も改めることができない父から自分たちの生活を守るために父を捨てました。
後悔はしていません。