あっと言う間に450万!見栄とダメなお金の管理で借金まみれ

【体験者のプロフィール】

  • 性別:男性
  • 職業:会社員
  • 年齢:30代
  • 借金:450万
  • 対応方法:任意整理

20代は借金ゼロだった私が、十数年の時を経て借金地獄に

20歳で結婚し、現在は4人の子宝に恵まれました。妻が大のローン嫌いな事もあり、20代は借金ゼロ。
運送会社に勤めていた私は月収35万円ほどでボーナスは年間10万円程度でした。
妻のローン嫌いにより車もローンを組むことが許されず、1年間で100万円を貯金。
そのお金を全額軽自動車の購入費用にあてるほど、借金とは程遠い生活をしていました。

しかしそれから十数年、最大450万円にまで借金は膨れ上がり、どのように対処したのかを事実に基づき順を追ってお話します。

カードや借金とは無縁だった20代

会社員として堅実に、無我夢中で働いていた20代。
妻のローン嫌いは変わる事もなく、クレジットカードやETCカードさえ1枚も所持していませんでした。
妻は大家族に憧れていたこともあり、子供は年々増えていき忙しく決して裕福ではありませんでしたが、幸せに暮らしていました。

18歳から運送業界で働いていた私は、出世のために日々会社に貢献。
一日16時間労働など当たり前の日々を何年も乗り越え、27歳の時に遂に会社に認められ、運行管理者資格者証を取得、配車管理を任されるようになりました。

その後も責任あるポジションのため休みも少なく、労働時間帯もバラバラになりながらもさらなる出世を目指し、ひたすら精進していました。
そのため子供は多いながらも家庭を顧みる時間は少なくなりました。
それでも妻は懸命に、子育てに励む毎日でした。

妻の両親との同居。子どもができて暗転

28歳で住宅ローンの審査が通り、中古ながら首都圏に一戸建てを購入。
その新居にて、妻の両親との同居生活が始まりました。
義父母は私にとても良くして下さり、穏やかで優しい人柄で同居することに対しての不安や抵抗は、全くと言っていいほどありませんでした。

しかしこの決断が、借金生活への扉を開くことに繋がろうとは、この時は微塵も思いませんでした。

幸せだった生活が、同居により揺らぎ始める

私たち家族が元々暮らしていたアパートは、妻の実家から徒歩5分ほどの場所だったこともあり、平日でも頻繁に行き来しており一緒に暮らす事になっても「普段からいつも一緒だし」と、逆に楽しみにさえ感じていました。

実際に同居を始めてもよくあるストレスもほとんどなく、義母は私を周囲に自慢するほど気に入ってくれ、私自身「同居してよかった」と感じていました。
そんな様子を妻も、とても喜んでくれていました。

しかしあんなに仲の良かった妻と義母の間に、修復不可能なほどの亀裂が入る出来事があり、それから家庭内の状況は急変。
全ての歯車が狂い始めたのです。

4人目の子の妊娠、義母の罵声

新居に引っ越した時点では3人だった子供も、引っ越した翌年に4人目を妊娠。
それまで女の子だけだった我が家に、男の子が誕生しました。

経済的な余裕はなく、4人目については夫婦で何度も話し合いを重ねました。しかし、「男の子が欲しい」という希望が経済的な不安を上回り、これまで以上に頑張らねばと決心し、めでたく男の子を授かることとなったわけです。

そんなある日妻が4人目の妊娠を義母に伝えたとき、事件は起きました。
「何考えてるの」「頭おかしいんじゃない?」「気違い」「お母さんは絶対面倒見ない」などと、悲しい言葉を、次々に浴びさせられたのです。
これまで義母は、孫たちの面倒をよく見て下さり「ばぁば、ばぁば」と子供たちもなついていて、そんな義母から発せられた言葉だとは信じがたく、聞いたときは開いた口が塞がりませんでした。

この1件により、両者の間に深い亀裂が入り、同居しているのにも関わらず、妻と義母は、全くただの一言も会話を交わす事がなくなってしまったのです。

妻と義母の関係は修復不可能

「時間が解決してくれる」という言葉をよく耳にしますが、この言葉は妻と義母には通用せず一切口を利かないまま、2年の時が流れました。
それまで毎年秋に行っていた家族旅行もなくなり、子供たちには申し訳ないと思いながらも、どうにもならない日々でした。

そんな中、私の会社での立ち位置も危うい状況に。
「次期所長」と言われ続けていた私ですが、直属の部下であったHさんに役職上追い抜かれ、当時の所長が定年退職後入れ替わりで所長に就任したのは私ではなく、そのHさんでした。

それまで骨身も惜しまず貢献してきた。
24時間労働というのも何度もあった。誰よりも仕事をこなしてきた自負がある。
自暴自棄になりました。
帰宅しても家庭内の雰囲気は悪く「ご飯もお風呂も用意されていない」などのつまらない理由で妻と喧嘩になる。

4人の子供を育て上げるための唯一の希望、生活を豊かにするための唯一の光を失ったような気持ちになっていました。

遂に退職。そして初めての借金。

4年間営業所のナンバー2として上司と部下に挟まれながら激務をこなしていましたが、希望を絶たれてからどんな仕事もうまくいかず、このままではだめだと新たな道を探し始めました。
以前付き合いのあった運送会社の課長と連絡を取り合い会うことに。
とにかく稼ぎたい事を伝えると、酷くハードではありながらも高収入を得られる仕事を紹介してもらい、苦渋の決断ではありましたが、遂に会社を退職。
新たな道を選びました。

その頃、妻との関係は悪化する一方。
お小遣い制だったお金の管理も、強制的に私がするようになりました。
関係が悪化していたとは言え、子供たちに不自由な事があってはならないと、退職前よりも少しゆとりのある金額を妻に渡していました。
そう、新しい仕事では収入が1.5倍になったのです。

ですがそれにより気持ちが大きくなり、更にはもともと計画性のない私は、きちんとお金の管理が出来ず、毎日のようにプチ贅沢をし、簡単に生活費が足らなくなるという、4人の子供の父親らしからぬ事態に陥りました。

そして遂に、妻に内緒で初めて消費者金融からの借金をすることになったのです。

家出を決意

私は家出をすることにしました。理由は

  • 新しい勤務地が家から車で1時間以上かかる場所であったこと
  • 家庭環境が悪く、居心地が悪かったこと
  • 収入が一気に増加したこと

もちろん妻とも話し合いました。
話し合いの中で、「離婚」の言葉も何度出てきたかわかりません。
しかし妻は離婚は望んでおらず、私も本意ではないため、休みの日だけ帰ってくるという「別居」という選択で話はまとまりました。
収入が増加したとはいえ子供が4人いる家計において、全く余裕などないのにも関わらず、なぜそれを妻が承諾したかというと、新しい勤務地の近くに妹の家があったためです。
妹は若くして結婚。
3人の子供を授かり早くして離婚。
女手一つで生活をしており、末っ子が登校拒否に近い状況であったため、私がその家に入ることで「教育の面で、少し手助けができる」との考えもありました。
話がまとまり、その翌日には妹の家に入り、新しい生活が始まったのです。

狂ってしまった金銭感覚

新しい職場での仕事は、まさにガテン系。
時間もやはり夜間で、とにかく肉体を酷使する内容。
自分で選んだ道とは言え、はじめの内は毎日が辛く、日ごろから走り込みなどで鍛えていた私でも、それはそれはしんどいものでした。

それでも収入は月収で60万円。
前職までは考えられない収入に、徐々に、知らず知らずのうちに、金銭感覚が狂っていく自分がいました。
前職までは、平均14時間ほどの稼働で、一日千円の小遣い。
タバコと飲み物、食事を約10年間賄っていました。
小遣いはそれだけで、休みの日に自由に使うお金もない日々。

そのストレスもあったのか、「自由に使える」という解放感も相まって、全く計画性なしの生活に陥ってしまったのです。

自由に使えるお金欲しさに、滞納し始めた「税金」

新しい職場は「会社員」としての雇用ではなかったため、健康保険は、社会保険ではなく国民保険。
さらに住民税、固定資産税。それらを自分で支払わなければならなくなりました。
前職でも年収は500万近くあったため、離職した初年度の税金は高く、あろうことか自由に使えるお金欲しさや「今月は臨時出費が多い」などの言い訳から、税金を滞納し始めてしまったのです。

60万円の収入があるとは言え、妻に約6割のお金を振り込み、その他に2台の車のローン、携帯代の支払い、妹の家にもお金を入れており、その時点で自由に使えるお金はそれほどありませんでした。
その時私の頭には「最悪また借金すればいい」との考えがあったのは言うまでもありません。

最大の問題は「危機感」の完全欠如

このような経済状況にも関わらず、当時の私はそれほど「危機感」のようなものを感じておらず、まるでそれが「当たり前」かのように、もっと言うと、辛い仕事を毎日こなしている自分を「誇り」にさえ思っていました。
どれだけ肉体的に辛くとも当然それ以上に収入が増える事はなく、状況を打開するには支出を減らす以外にないことを「気づかぬふり」をして、変わらず気にせずお金を使っていました。

しかし、こうなる理由の一つに「贅沢をしているわけではない」という自負がありました。
実際、高級品を身に着けたり、贅沢な外食や、休みの日に外に飲みに行ったりなどは、ほとんどなく、強いて言うなら家に帰った際、子供たちに「いい顔」がしたい。一緒にいてやれずに申し訳ない、という想いから、毎回外食に連れて行く程度のものでした。
私が日常で行く外食と言えば、牛丼店やラーメン店など、庶民的なところばかりでしたが、それでも私の経済状況にとっては、充分贅沢であったということです。

休日は楽しく、明るい家庭が戻った。
家に帰ると子供たちは大喜び。
義父母は心配してはいたものの、関係が悪くなるような事もなく、久しぶりに会うことで妻との会話は増え、生活環境自体は「こういう形もありかな」という感覚がありました。
逆にそのような状況であった分、税金の滞納や借金の事を妻に話すこともできず、小さな贅沢を大した危機感を感じる事もなく続けていました。
「贅沢をしている」という事実から目を背けているうちに、税金は毎月滞納。
徐々に状況は、取り返しの付かないものへと進んでいきました。

税金の滞納は「当たり前」に

国民健康保険、県民税、固定資産税。気が付くと年間で、合わせて50万円超の滞納金が出来てしまっていました。
妻に打ち明ける事も出来ず、楽観主義者の私でもその頃ようやく事の重大さに気づき始めました。

しかし時すでに遅く、毎日の生活で食費や日用品などで節約してどうこうなるレベルではなく、気休めの節約をしては「意味がない」などと言い訳をしていました。
「お金がない」という現実から目を背け、気づかないふりをして当たり前のように借金を積み重ねる日々を送っていたのです。

危機感を覚えてはいるものの、これと言って対策を講じることもせず、金銭的に厳しい2重生活を続けていました。
そんな状況でありながら、妻には前職での給料以上のお金を振り込み、休日には子供たちに「良い顔をしたい」という理由で必ず家族で外食をしました。
家族に対して何事もないような顔をして振る舞っていました。
後ろめたい気持ちが無いわけではありませんでしたが、どうにもできない現実が、そこにはありました。

初めての大きな借金

個人事業主として働いていたため、税金の支払いはもちろんのこと、確定申告も自分で行わなければなりませんでした。
あらゆる税金を滞納しておきながら重い腰を上げ、個人事業主としては初めて確定申告を行いました。

所得税の納税用紙を見たとき、それまで「どうにか収入を増やして、滞納している税金の支払いをしなければ」との考えを一度捨てる決意をしました。
「給料の差し押さえ」や「家の差し押さえ」など、家族に迷惑をかけるわけにはいかない、これ以上滞納を続ければ一番あってはならない事態になりかねない。
そう考えたわけです。

そして初めて消費者金融にて「50万円」という大きな借金を背負う事になったのです。
しかし今思えば、この借金をした時の私の「感覚」にある致命的な欠陥があった事に、その時は全く気付いていませんでした。

「肩の荷が下りた」と思ってしまった

50万円を超える税金の滞納を、一括で収めた事で、あろうことか「肩の荷が下りた」「楽になった」などと感じている自分がいました。

人様に借りたお金で税金を支払っておきながら、節約生活も中止。
当然妻には借金の事を話す事もなく、ただ漫然と「収入増やさなきゃ」と思うのみ。
収入を増やすための行動も全くと言っていいほど何もせず、得意の「現実逃避」で毎日を過ごしていました。
生活レベルを下げることもせず、収入が増えることも減ることもなく、前年度より支出のみが多い状況で、翌年度の税金納付時期が来てしまいました。

収入を増やすための仕事がストレスを増やした

経済的に大きな問題を抱えていながらも、仕事では、とにかくがむしゃらに、長時間労働も、誰もが嫌がるハードワークも、自ら進んでこなしてきました。

15時間を超えるハードワークも給料には結びつかず、その分肉体も精神も疲弊していました。
特に夏になると夜間配送にかかわらず、配達中は大汗をかき、体中が悲鳴を上げるような内容に嫌気がさしながらも、収入を増やしたい一心で努力しました。
その分休日には「ストレス解消」を言い訳に、必ず外食。日々の晩酌に飲むワインの値段さえ、気が付くと上がっていました。

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