間寛平の借金地獄|連帯保証人やグッズ販売失敗の負債を完済できた理由

間寛平さんといえば、吉本興業のお笑いタレント・俳優などとして有名です。
いつもニコニコ顔で「アメマ」などのギャグでお茶の間を沸かす寛平さんですが、なかなか山あり谷ありの半生を送っています。

おひとよしによる多額の借金

実は過去にかなりの額の借金を背負っていました。

すぐ保証人になってしまう「歩くハンコ屋」

間寛平さんは良く言えば人情深く、悪く言えばお人よしな面がありました。
20代で吉本興業のある先輩芸人から借金の保証人をたのまれ、深く考えずに引き受けてしまったのです。
その後その先輩芸人は姿をくらましてしまい、その借金を全て引き受けなければならないことに。
先輩芸人に背負わされた借金の額は、数百万円と言われています。

弱みに付け込む‟怪しい知人”

今まで借金などしたことの無かった寛平さんですが、人の借金を返済しなければならなくなったのです。
そんな時に逼迫した状態につけ入る‟怪しい知人”が続出し「お金を貸すという人がいる」といって、寛平さんにさらにハンコを押させました。これにより瞬く間に借金が増えてしまいました。

ブームが去った後の10万個の「アメマバッジ」

間寛平さんの借金は保証人でできたものだけではありません。

86年に「今夜は眠れナイト」というテレビ番組があり、その中の人形劇コーナーにアメママンというキャラクターがおり、その声を寛平さんが担当していたそうです。

当時は人気があり、司会の大平サブロー・シローさんの「バッジを作ったら売れる」というアドバイス(?)を真に受けて、このキャラクターを使ったバッジを10万個製造しました。
しかしバッジを販売する前に番組の終了が決定。
結果的にバッジの制作業者から6,000万円の請求をされることになりました。

支払いができない寛平さんに対して、業者から支払いに関する裁判を起こされており、後に「アメマ裁判」として知られることになります。

阪神大震災で新居が崩壊

連帯保証人や、アメマバッジにより長年返済し続けていた寛平さんは、当時のマネージャーに支えられながら吉本興業のスケジュールをこなして完済しました。
しかしその数日後、阪神淡路大震災が発生し、神戸の宝塚市に新築したマイホームが崩壊する憂き目に会ってしまいました。

当時寛平さんは地震保険に加入していなかった為、自腹で再建せざるを得ず、再び負債を抱えることになりました。

マラソンと癌と忌野清志郎さんの死

世界一周アースマラソン参加

寛平さんは普段から趣味としてマラソンを続けていました。もともと心臓疾患を抱えており、その治療の一環としてマラソンを続けていたそうですが、今では心臓疾患を克服して心臓の強さがアスリート並みになったそうです。

2008年に3年間芸能活動を休止して世界一周マラソン「アースマラソン」に参加しています。
その距離は4万1000㎞で、走る地域は気候も様々であったり舗装もままならない場所であったりとその過酷さが伺えます。

前立腺がんを発症

アースマラソンに参加して2年後の2010年に立ち寄ったトルコで中期の前立腺がんを発症している事がわかりました。3か月後トルクメニスタンに到着し、アメリカへ引き返して治療に専念しました。手術も無事に終わり、改めてトルクメニスタンからアースマラソンを再開しましたが、死への恐怖やマラソンを続けられるかどうかの不安などの葛藤があったといいます。

忌野清志郎さんの死

前後しますがこのアースマラソン挑戦中に、間寛平さんの親友でもあり恩人ともいえる忌野清志郎さんが咽頭がんで亡くなっています。
時系列としては以下のようになります。

2008年12月17日 アースマラソン開始
2009年5月2日 忌野清志郎さん咽頭がんで他界
2010年1月4日 前立腺がんの発症が判明
2010年6月1日 手術成功
2010年6月18日 アースマラソン再開

親友である忌野清志郎さんを咽頭がんで亡くされ、さらにその1年後に自らもがんを発症。
悲しみをこらえながら挑戦するマラソンで、更に自らもがんを発症して不安を抱えてのチャンレジは、厳しいものであっただろうと想像に難くありません。

まとめ

間寛平さんが借金を抱えたのは、マラソンの参加よりも以前のことですが、こうしたことを見ても元々芯の強い人なのだろうと思います。
この強い心が借金完済を成功させたのではないでしょうか。

借金返済の難行を乗り越えた過去が、そもそも強かった寛平さんの心をさらに強くしてその後のマラソンや辛い闘病などを乗り越えることができたとも言えます。

寛平さんのパワーはこうした過去からも伺い知ることができますね。
今後の更なるご活躍に期待が高まります。

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